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コージ先生の講義備忘録

クセになる芝居やないか

不思議な空間がつくりあげられた。正面から笑わせにかかるのではなく。また奇をてらうものでもなく、ごく自然体に…
一昨年のあるコンテストの優勝戦の楽屋で、たまたま出会った二人が、全く違うテイストを持っているにも関わらず、表現者としてどこか惹かれあい、ひとつの芝居をつくりあげるまでに至った。


堀川絵美氏(チラシ向かって左)はよしもとクリエイティブエージェンシー所属、田川徳子氏は少し前まで関西を中心に活動する劇団員だったが、最近フリーとなり、表現者として自由に情報発信している。つまり今回の芝居は「事務所内のノリ」ではなく、開催に個人でリスクを背負って打っているもの。


本日(2月8日)だけ挙行されるこの芝居は三部構成(貼付レジュメ参照)。レジュメとは違う角度からのコメントを残しておこう

▼第一部『めちゃピザタウンのふたり』:脅迫と勘違いを交錯させるとどんな展開の可能性があるか。東京風のコントにリズミカルな動きをつけると、無理な設定がかえって効果的な笑いへと転換されていた。
▼第二部『洞窟の中には』:全く背景が異なる二人のパラレルな個人ストーリーが、あるキーワードによってすべての謎が説かれる。しかしストーリーには最後の1分でホラーというオチが待っていた。二人ともそんな仕事の依頼って、あるかい!というような任務を背負って山中で出くわすのだが、堀川氏のイタコ姿と所作があまりにもハマりすぎ。体型もそれを助長して、誰が笑わんといられるかいっ!
▼第三部『A FISH STORY』:足の角質を食べてくれるというドクター・フィッシュ。舞台上手(かみて)に水槽に足を入れる堀川氏、下手(しもて)に水中にいるはずのドクター・フィッシュを演じる(チープな魚の衣裳を身につけた)田川氏。この水槽にはこのドクター・フィッシュ一匹のみ。なぜならば彼(彼女?)は「ヴィーガンー 純粋菜食者」で、ニンゲンの皮膚は食べられないので、一匹だけ残っているという設定。この設定自体、さすが堀川絵美(作・演出)ワールドの真骨頂。そのヴィーガン・フィッシュが人命を助けるために、自分の命と引き換えに人間の皮膚を食べる…
んなアホな!のストーリーだけど、涙腺が弱くなってしまっている初老のおっちゃんの目尻には……

舞踏のような強烈な押し出しがあるわけでもなく、また劇団四季のような鍛え抜かれた肉体・技・表現に関しての思想があるわけでない。何というか、なんともクセになる、独特な世界をもった、しかも元来の芸人とギャグ100連発の動画をあげている役者という二人がつくりあげた唯一無二の芝居。観劇後、単純に爽快感一杯で帰路についた。


学部4回生時、とあるきっかけで芝居にはまり、東京に出てからも下北沢くんだりの小劇場に足を運んでいた。また芝居のアタマになっちまうんだろうか?

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# by jazztak | 2019-02-10 00:19 | エンタテイメント

お笑い三昧

 こちらのブログはしばらく放置していました。読む人はいないだろうな~


今後こちらのブログは「読む人がいない」という前提で、実名で参加しているフェイスブックで書いた記事を、フェイスブックに参加していないどなたかにピンポイントで読んでいただくためのツールとして使って行こうと思います。


【2018年12月24日記事】


 昨日(23日)はお笑い三昧。夕方から新世界朝日劇場、難波漫才劇場、道頓堀ZAZAと、劇場3つをハシゴ。
朝日はこれから上位を狙う芸人さん―芸歴1年目から10年選手まで―がしのぎを削る場。お客の投票でランクアップし、次のリーグ、またその次へと駒をすすめられるのは一握り。いくつもの難関をくぐり抜け、漫才劇場の舞台を踏めるのは、ほんの一握り。その厳しい「ヒエラルヒー」のテッペンに燦然と輝くのがNGK。彼らにとって果しない夢の舞台。ワタシの押しの紅しょうがさんは、今漫才劇場の、「翔メンバー」(下克上アリ)に定着したところ。


 吉本はギャラは安いかもしれないが、他にも複数劇場があって、生のお客さんの前で芸ができるチャンスが与えられている。いわゆる「板の上」で実力をつけていく。ここで人気と実力を勘違いして未熟のまま東京へ出て、東京のテレビに「消費」され、消えてしまった芸人は、過去あまたいたわけで……そこから先は吉本もケアはしない。自分の力と根性でもう一度這い上がるしかない。

朝日劇場には、ミセスマキエさんを観に行った。彼女の同期の女芸人ゆりやん、紅しょうが熊元プロレスが売れていく中、迷いもあるだろう。でも、本人自身は気づいていないだろう芸の可能性が感じられる。真っ白な画用紙にさっと絵が描けるとでも言うか……本人はフリップ芸は不得意のようだが、舞台上で自分自身の身体がフリップの中で躍動している。演者はわからない、観ている側の感性にガツンと当たると、ケミストリーが発生するとでも言うか……紅しょうがさんとは違う視点で応援して行きたい芸人さんだ。


 漫才劇場には「たくろう単独ライブ」(漫才師ですよ、アノ拓郎ではないよ~)を、娘が誘ってくれ、一緒に。芸歴4年で漫才劇場超満席状態。立ち見が100人位居たかな。400人は入ってた。M―1敗者復活戦で認知度が急上昇したか、男性若手漫才師にしてはお客に「大人の男性」の割合が高かった。今までになかった間(ま)の取り方、木村バンドのツッコミと赤城のボケのタイムラグを十二分に活かし、かつ複数のネタそれぞれに新鮮味がある。オジサンのファンを取り込んでいるゆえ、浮かれた人気だけではなく、しばらく芸の方も磐石と思われるな。来年はきっとM―1ファイナリストに名を連ねているだろう。


 ZAZAには「女芸人大祭り」を観に。こちらはワタシが娘を誘った。今回はトークのみでネタなし。もち、紅しょうがさん目当て。内輪ネタ満載でメチャメチャおもろかったけど、仕切りのリンゴさんからの要望。「SNSには書かんといてや~」。客としての「守秘義務」を遵守致します😃


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         ▲写真は朝日劇場の前、ミセスマキエさんと


# by jazztak | 2018-12-24 21:44 | エンタテイメント

KI問題の本質

これは表には書きたくないので、こちらにコメントさせていただきました。
この問題は、「同和問題」。
以上。


 関西ならこれで多くの人は納得するはずです。
核心のところをつけないマスコミ。もしつついたとすれば、それは「差別」という騒ぎと、とんでもない「裏社会」をつついてしまうことになるから。役人の詰め腹切りだけでは済まないでしょう。

 同和問題を表だって口にすれば、その発言をしたものは二度とマスコミには出られなくなるし、引き続き出ていたとすれば、そのことには二度と触れることがないようにしなければなりません。脅しとかそういうレベルではなく、とんでもない裏社会の怖さがあるようです。
以前美川憲一が京都の金主から金を借りてこじらせた(デビ夫人も絡んでいたあれ)問題も、いつの間にかフェードアウトしたのは、マスコミに圧力がかかったのでしょう。
「ヤクザ」は裏社会ではありません。きちんと表に出てきている「反社会勢力」。そんなの比じゃないくらいの恐ろしい裏社会がありますね。

 ちなみに籠池が小学校を建てようとしていた場所は、産廃投棄場でしたね。なんでそんな場所かというと、昭和40年代中ごろの、モザイクがかかっていない地図を見れば一目瞭然。あそこは部落です。そこに住んでいた人々を市価の数分の一の家賃でマンションに移住させ、跡地を投棄場にしたわけです。
 そもそも伊丹空港は同和がらみで、大阪モノレールも空港まで延伸できなかったのは、同和地区を突っ切るように走ることになり、役人がいくらカネを積んでも、土下座して立ち退いてと言おうとも、「オマエここをどこや思うてんねん。もっと誠意を見せんかい」という、どこかの半島の北側のような態度をとり続け、嫌がらせと値段のつり上げをもくろんでいたのでした。もちろん騒音への補償も手厚くなされていたのですが。

 現在は伊丹空港までモノレールが開通しましたが、じゃなんで開通できたかというと…
アクセスのための用地を買収できないようでは伊丹空港の格が上がらない。じゃ、騒音の関係もあるので「関空構想」が立ち上がり、開港に至った暁には、役人も頭を下げに来なくなり、通せんぼしていた土地が下落した。で、彼らはあわてて逆に売り込んだという顛末でした。その建設廃棄物はどこへ投棄するか…
 「産廃を投棄した土地」であれば、それを盾に役人から安く買い叩いたのが同和仲間の籠池。「小学校をつくる」といえば、いかなる勢力も文句は言えないだろうし、土地の記憶もチャラになる。

 キタナイ話で塗り固められているのがこの問題。で、その核心部分を報道しない(できない)から、なんでそうなってるの?とわからない国民には不可思議な問題にしか映らない。そんな中、キタナイ裏社会の表に出ている代表者、野中が死んだ。これはお年のせいだろうが、この籠池問題で(私には何者かはよくわからないが)一人死んでいる。

 もし、麻生さんが辞任するならば、編集不可能な生放送中テレビカメラの前で、本質部分をばらすという爆弾を落としていってほしいと思うのだが。

 ここだけの話にしておいてくださいね。これは危なすぎますゆえ…

# by jazztak | 2018-03-15 17:59 | その他

32年前の回想とホームステイ先のラジオで毎日聴いていた曲

 2月26日(日)、アメリカサクラメント研修の同窓会が挙行されました。我々四期(1982年)と次年度(1983年)合同で、メンバーのテリー氏の店を借り切って交流しました。昼13時半から卒業後のことや近況報告などしながら、愉快なひとときを過ごしました。この両年度を引率された先生が、事情でいらっしゃれなかったことが、唯一残念なことでした。

 何者になるかわからなかったメンバーが、何者かに仕上がった状態で旧交を温める。もう誰がどんな仕事のどんなステイタスについているか、もう競争心など、ない。ただただ年を重ねて、今を生きていられる歓びを分かち合う。そして明日の活力の源となり、分かれ行く。次の再開を楽しみにして…


【以下2014年1月16日のブログより】…本ブログの記事ではありません

 1982年夏、引率のN先生と15名のメンバーは、乾いたカリフォルニア州サクラメントにいた。かつてここの市長を務めたR.レーガン氏は、時の大統領。西部開拓時代、西海岸では金が採れるという噂を聞きつけ、一攫千金を夢見たむくつけき男どもが、「Go West!」の掛け声と共に、ゴールドラッシュのムーブメントを引き起こしたサクラメント。

 サンフランシスコから内陸部にバスで2時間ほど。途中タバコのピース柄よろしく、3メートルにもなりなんとするサボテンが点在するステップ気候を通り過ぎて、やっとたどり着く。そこで大学主催の国際交流プログラムとして30日間のホームステイを体験した。

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 到着してからホストファミリーが変更されたのが2人。そのうちの1人がワタシだった。だが、米国でも中の中の階層のお宅で、AT&Tの要職に就いているご主人、ペギー葉山さん似で料理上手の奥様は専業主婦。11年生の娘さんと6年生の息子さんがいた。
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 庭のプールは入り放題、飲料専用の冷蔵庫からはビール飲み放題、スナック菓子食べ放題という「夢のような」生活を体験。専用の部屋をひとつ与えられ、スクーリングや行事がある時以外は、宿題をしながらラジオで毎日ローカル局のFMを聴く日々。一日中ロックやポップスを流し続けている局。当初は曲の合間のトークが聞きとれなかったが、一週間もすれば、おおむね何を言っているかがわかるように若いってすばらしいな~

 この局ではThe J. Geils Bandの、「Centerfold(落ちた天使)」と、このReo speed wagonの「Keep the FireBurnin' 」が毎日のようにOAされていた。
 もう、32年前になる。録音できるウォークマンもどき(AIWA製品)を持って行き、いろいろな音を録ってきたが、内蔵マイクで録る音は音質が悪いため、音楽は録音はしなかったが、ホストファミリーとの会話は、かろうじて数分かは残っているはず。そう、「カセットテープ」。録音時間と費用を考え音質は二の次にしたため、TDKD-120を何本か持参した。テープは捨ててはいないはず。おそらく「王様ボックス」(人生で捨てられないものが放り込んである)にしまってあるのでは(未確認)

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 このプログラムに参加したのは、そもそもワタシは米国嫌いで、そこがどんな国かをこの目で確かめたいという思いからだった。面接(英語!)ではそのことを熱っぽく語った。だが、このプログラムに参加すべく、予め資金を貯めようとして家業を手伝っている時に、右手に大けがをしてしまった。面接官から「リハビリに集中した方がいいのでは」とたしなめられたが、ぜひ行きたいとアピール。晴れて参加メンバーに選出された。


 プログラム参加後の結論として、「国家としての米国」(マクロレベル)にはやはり違和感があり続けたが、ミクロレベルでの屈託のない「中流アメリカ人」は、好きになっていた。そう、個人として面と向かうと、とんでもなくいい人たちと知りあえたのだった。

 30日のプログラム終了後、カナダ・バンクーバーへと渡った。新たに姉妹校関係を結びたいとオファーがあったカレッジに、「先兵隊」よろしく、送り込まれた。例年にない付帯プログラムで、今風にいえば「おいしい」体験。3日間寮に泊り、関係者のご自宅も訪問した。メンタリティというか、肌感覚というか、自信に満ちた中流米国人とは異なる空気をどことなく感じた。
 大学の重要ポストに就いている日系人教授のお宅で、サーモンステーキ・パーティーを催して頂いたのだが、ひと月の米国生活で「サカナに飢えた」メンバーは、わっと集まり、会話もそっちのけでむしゃぶりついた。用意されていた大ぶりのサーモン(5匹だったと記憶している)が、あっという間に消えてしまった。「日本人の若者の食欲は、こんなにも凄いのか?」とN氏が驚いたと、先生からうかがった後日談。

 また、中華料理店で歓迎して頂いた時、隣り合わせに座った大食いの2人の学生に、ある教授が「Do you like Chicken skin?」と尋ね、引率のN先生の制止もそっちのけで、「Yes,we like it very much」と声を合わせ答えた。N先生、「君たちチキンスキンって、わかってんの?」。果たして出てきたのは鶏の爪(鳳爪)。大食いの2人は想像を打ち砕かれ、頼んだ責任上、えいやっと口に運び、はじめての食感に「トリ肌」をたてながらも、何とか完食。

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 その大食いの1人はワタシ。後に台湾や香港に頻繁に出入りするようになり、好んで食べる料理となった。

Reo speed wagon  Keep the fire burnin'…
 歌詞をよく見ると、かなりワイルドに性的アプローチをしているような曲なんだな。文脈では違った意味なのだけど、「Let us not stop learnin'」という文言を発見。好奇心をもって何でも吸収しようとしていたあの頃。何者でもない、何者になるかもしれない仲間。「I know that we can work it out」俺たちはうまくやれるさ
 枯れてちゃ、いかんな。もう少し目をキラキラさせて、前を向いていきたいな。


 32年前の、米国で「青い春」を感じていた瞬間の「Keep the Fire Burenin」、もしよかったら聴いてみてね。 

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 △バンクーバー チャイナタウンの一角にて

※なお過ぎ去った年数は、ブログを書いた時点でのものです。


# by jazztak | 2017-03-01 07:35 | その他

昭和40年代前半の電話事情

1.昭和40年少し前の電話事情
 昭和40年少し前頃、ワタシの実家がある地区では、自宅に電電公社の債権を持って、黒電話を引いている家は、商家か名士の家くらいしかなかった※①。電話が必用な場合は、その家に行って、頼んで貸してもらうのでした。また電話がかかってきた場合は、その家の好意で、呼びに来てくれたものです。もちろん公衆電話なんて、街に出なければありません。嗚呼、昭和の地域互助風景。

2.「農集」という電話回線
 ところで当時の物価に比べてバカ高い債権を買わなくとも電話が引けるという、社会経済的「互助組織」がありました。「地域団体加入電話」のひとつ、「農村団体電話」―「農集」です。社会的・経済的に結びつきが強い組合の組合員に限り加入できるもので、複数加入者(最大10)でひとつの回線を共有するというシステムでした。これは農林漁村で「有線放送電話」の拡大に、電電公社が対抗したシステムでした。農集のお宅は、電話番号帳には、その番号の前に(集)―丸囲みの中に「集」―が入っていました。
 ただ農集は、同じ回線の、どこかのご家庭が話し中の会話を、受話器越しに聞くことができるという、プライバシーもへったくれもないというものでした。
 受話器を上げて話そうとすると、誰かが通話中。「おい、オレ今から電話かけんねや。おまんとこ早う切れぇ」と、ある友人宅でそこの「父ちゃん」が受話器に向かって腹立てていた光景を見たことがあります。

3.有線という電話機能・放送装置
 ワタシの家は、農家ではないので農集には入らず、町内で「有線放送電話」が敷設された(確か昭和41年)と同時に、加入しました。朝6時、昼12時、夕方6時、夜9時と、一日4回町内ニュースや天気予報などの放送が、スピーカーから流れ出し、その時間15分間は通話が不可能となる電話でした。そんな定時放送は通常は邪魔なのですが、台風(昔の台風かコワかった。特にワタシの家の目の前が海で、暴風と堤防が決壊する恐れと、ほとんど必ずやってくる「停電」が特にコワい)の時には、何度も放送が入るので、この時ばかりはなんと心強いと思ったものでした。
 なお早く有線放送電話が敷設された地区では、電話機と放送受信用のスピーカーシステムとがセパレートになっているところがあったようですが、わが街では普通のダイヤル式黒電話で、電話機の底にスピーカーが埋め込まれていたものでした。

4.ハンドル式黒電話のかけ方
 時代は昭和40年少し前当時に戻ります。
 ワタシたち町営住宅入居者は、近くのうどん製麺所(以下うどん屋さん)で電話を借りていました。このうどん屋さんの電話は、「ハンドル式黒電話」(磁石式黒電話)でした。いわゆる「交換手」が電話を「かけた者」と「かけられた者」を、手動で線をつなぐものです。受話器をとって、ハンドルを右回しにグルグルと5回ほど回すと、「交換です」と女性の声がする。そこで通話したい相手の番号を言うと、市内ならつなげてくれる。市外なら交換がその土地の交換につないでくれて、、そちらの交換に番号を告げるという利用方法だった。
 公衆電話からハンドル式電話へのかけ方については下記 IZ君の話でもう少し補足します。




5.ハンドル式黒電話を駆逐したダイヤル式黒電話
 このハンドル式黒電話は、昭和40年代に入って急速に姿を消し、ダイヤル式黒電話全盛期となったのでした。昭和44年には、我が家にも電電公社の黒電話がやってきて、玄関の電話代の上に、「レースの座布団と上掛け」という厚遇で迎えられました。
 しばらくの間電電公社の電話機と有線とが並列して置いてあったのですが、やがて有線を使うご家庭が極端に減り、我が家も昭和45年には解約をしていました。

6.高専での電話事情
 時は昭和51年。ワタシは高専に入学。学校からいかに近距離に自宅があっても、1・2年生は学生寮に強制入寮という学則があり、第4寮に入寮しました。かかってくる電話は、部活(体育会に強制入部。ただし吹奏楽部は体育会扱い)終了後から自習時間前まで、そして自習時間終了から消灯時間までは当番がいて、放送で電話がかかってきた当人を呼び出すことになっていました。
 一方電話をかけたい場合は、自習時間終了後9:30から消灯前の10:00の間のみ、高学年(4・5年生)が入る第1寮の寮母室まで出かけ、「赤電話」(公衆電話)の前に一列に並んでその順番を待つのでした。通話時間制限があり、確か一人3分だったと記憶します。




7.この時代に、それかい! IZ君
 ある日のこと、ワタシの前に並んでいた IZ君は、自分の番になると。「ちょっと待って」とワタシに言い、寮母さんを呼びに行った。寮母さんはカギを持ってきて、電話機の後ろに挿して回す。すると彼は「8桁」の市外局番をダイヤルし、「167」盤と声にする。しばらくして彼は話し始めた。そう、電話番号を聞いた交換手が、手動でつないでいるのでした。

 市内局番が2桁なら市外局番は4桁、1桁なら5桁。市内局番がない場合は6桁が市外局番となる。7桁・8桁は、電話加入世帯数で決定される。最も加入者が少ない地区の市外局番が8桁となる。
 バスも通っていない山奥から出てきていた彼。自宅に電話していた様子。これ、昭和51(1976)年の話。中学時代まで父の林業を手伝ってきたとあって、風呂に入った彼の姿を見ると、「つくられた肉体」ではなく、「野生の肉体」と言うのがふさわしいほどの、凄みがある肉体美で、皆がはやし立てたりうらやんだりしていたことを思い出します。
8.追記
 先のうどん屋さんには娘さんがいて、ピアノを教えていた。高度成長の最初のピークを迎える昭和42・3年頃になると、少しばかり余裕ができたお宅は、「電気オルガン」(小学校にあった足踏み式ではない)を買い、自分たちの娘をこの娘さんのところへ習わせに行かせたものでした。我が家も母が起業し、妹をレッスンに通わせられるようになっていました。
 ただ、時代の流れか、このうどん屋さんは昭和45年頃になると事業を縮小し、昭和47年だったと思いますが、製麺所をたたみ、どこかへ行ってしまいました。その広い跡地に今は、何軒かの戸建てと、ワンルームマンションが建っている。



9.註―電電公社債権について
※①:「電電公社」は国が経営する企業で、債権は、「電話を引く権利のために必要な出資金」で、10万円程度でそれをを購入しなければ、電話を敷設できない。電電公社の電話をやめるときに、その時点での債権の価値を算出して返金がなされるもの。高卒サラリーマンの給料が(全国平均で)2万6・7千円程度の頃、当時まだ家庭に必要かどうかわからない電話に、使用料以外にバカ高い初期投資が理にかなっているかどうか。いわゆる「贅沢品」を購入するためのメリットがあるかどうか。親世代は悩んだことでしょう。

10.付記
 しかし昭和39年の東京オリンピック終了後、GNP成長率は毎年二桁を記録し、家計はみるみる成長していきました。昭和43(1968)年、資本主義諸国でGNP第二位となった頃には、10万円の債権は、多くの人が購入できるという社会経済が出来上がっていました。
 そして、好きな女子のところへ電話をする男子が、お父さんが出た時の言葉遣いと心構え、長電話しているとき、隣で母親が無言でプレッシャーをかけるなど、電話を取り巻く昭和の青少年たちの、それぞれの恋愛ストーリーが生まれたのでした。
 下は東京・高円寺の骨董品屋で求めたのと同じ形の、昭和30年代の黒電話。ダイヤルが金属製。独身時代から結婚して数年間(回線をデジタルに切り替えるまで)現役で使っていました。その後は書斎の「飾り」にしてあったのですが、本に居場所を奪われ、現在は息子の部屋の押し入れに保存してあります。
※写真はすべてお借りしました

# by jazztak | 2017-02-16 00:19 | 1960年代社会文化



社会保障とアジア経済の復習ブログ

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